わが国において、いつ頃からお歯黒が行われるようになったのか、
実ははっきりとはわかっておりません。いろいろな古文書からお歯黒の起源
と変遷を推測してみましょう。
わが国で行われてきたお歯黒の種類は
1.草木・果実により歯を染めるお歯黒らしきもの
(草木染的なお歯黒)
2.鉄とタンニンを材料として歯を染めるお歯黒
(自家製の鉄タンニンお歯黒)
3.鑑真和尚より伝わったお歯黒
(鑑真お歯黒)
の3通りあったと思われます。
お歯黒の起源についてまとめますと、
1.古事記より、応仁天皇の時代にはお歯黒らしきことが行われていた。
2.古墳(3世紀頃)からお歯黒をした埴輪が見つかった
*このことは応仁天皇よりも以前から行われていたことが考え
られます。
3.古代、南方方面からわが国にお歯黒が伝わった形跡がある。
4.鉄文化を持った百済から鉄を材料にしたお歯黒が伝わったようだ。
5.日本で、早くから鉄文化を持っていた中国地方(特に出雲)で鉄
を材料にしたお歯黒が広まった。
6.鑑真和尚が来日の際、独自のお歯黒の作り方を中国から伝えた。
(香登のお歯黒:後述)
応仁天皇のといえば、福岡県粕屋郡宇美町にある宇美神社の祭神で
あり、その両親は福岡市東区香椎にある香椎宮に祭られている仲哀
天皇と神功皇后である。”古事記”の中に、応仁天皇の恋文がある。
その中にお歯黒らしきことを書いた記述がある。恋した女性の後ろ
姿や、歯並びが美しく、菱形(当時歯を削る習慣があったらしい)
で黒く光って美しい!と書かれている。
当時どのようにして歯を黒くしたのであろうか。長谷川正康先生は、
当時の酒造り方は「口醸(かもす)す酒」製法であった。山ブドウ、
モモ、杏等を材料に果物を歯で咬み、壷に入れて唾液で発酵させた。
さぞかし女性の歯は果実の渋で黒くなったに違いない。すなわち、
これが”働く女性の美しさ”として習慣となったと考えられると述
べておられます。
また、南方からもヤマモモ、ビンロウを咬んで歯を染める方法が我
国に伝わってきた形跡がある。現在でもインドネシアで行われてお
り、古代日本と同じく既婚を意味するお歯黒なのです。これは偶然
の一致なのであろうか。
また、縄文弥生時代において、日本に自生する果実は、クルミ、
栗、ブドウ、山ブドウ、グミ、柿などであったが、特に山ブドウに
は酸味が強く、妊婦がこれを好んで食べたので歯が黒くなったと思
われる。歯が黒いのは妊婦のしるしとされ、歯の白黒で未婚か既婚
の区別をしたという長谷川先生の説もある。
お歯黒は平安中期までは草木・果実染め的なお歯黒であった。
前述したが、「口醸す酒」製法で口に含んだブドウの渋で歯が黒く
なり、これが「働く女性の美しさ」となり習慣化したものだが、
鉄文化が日本に伝来するにつれ、鉄を材料としたお歯黒に変わって
きた。出雲地方は早く鉄をつくる技術があったので、鉄を使っての
お歯黒がいち早く行われた地方であろう。九州は青銅器文化が出雲
より長く、草木・果実染め的お歯黒が長く続いたと考えられる。
鉄とタンニンを反応させるこの方法は、色のつきがよいので次第
に草木染め的お歯黒から変わっていった。平安時代中期までは両者
おこなわれていたようだが、鎌倉時代になると鉄とタンニンを用い
たお歯黒に変わってしまった。
では一体、鉄とタンニンを用いるお歯黒とはどのようにしてつくら
れたのだろうか。お茶を沸騰させ、これに焼いた釘、てつくずなど
を入れ、お酒や麹を入れてつくります。これを密封して2~3ヶ月間
保存すると茶褐色の悪臭を放つ甘い液体ができる。これにふし粉をつ
けて歯を染めるのです。
しかし、お歯黒を製造することは大変難しかったようです。非常に
臭くて扱いにも苦労したようだ。。漬け物と一緒でなかなか加減が
難しく、若い女性にとってつくったり、保管したりは至難の業で
あったようだ。
ところが、鑑真和尚が中国から独自のお歯黒の作り方を伝えました。
今まで家庭でつくるしかなかったお歯黒を簡単にしかも安定の良いも
のを製造し広めたのである。以後、江戸時代までお歯黒は続いていった。
明治元年1月と3年2月に公卿に対しお歯黒禁止令が出された。
しかし、庶民の中にはなかなかお歯黒をやめようとはしなかった。
特に女性において強かった。そこで、明治天皇の昭憲皇后と母の明治
皇太后が、明治6年自らお歯黒をやめて、お歯黒は文明度が低いもので
あることを国民に知らしめた。
大正時代には庶民のお歯黒も廃れていき、田舎の方で一部習慣でされ
るくらいで、日本全国ほとんどなくなったといわれる。
昭和時代には全く見られなくなったようだ。
しかし、このお歯黒にはむし歯予防効果があったようだ。お歯黒
をした人骨の歯にはむし歯が非常に少ないことが多くの学者の研究
で知られている。科学的にもお歯黒がウ蝕を抑制することが確認さ
れている。先人達にはこのことがわかっていたのであろうか?
私はわかっていたと確信します。
お歯黒は一体何を意味したのであろうか?女性のお歯黒は、
女性の身だしなみとして益々盛んに行われるようになった。
平安時代において、貴族の娘は17~8歳でお歯黒をしていたようだ。
それは娘の成人したことを表したようです。上流階級の娘の成人式
は一般人のそれよりも早くおこなわれた。
一方、男性のお歯黒はファッション(流行)で行ったと言う説や、
武士が一生涯の内に二君を持たないと言う忠誠の証に行われたとい
う説、高級武士だけがお歯黒をしたと言う説がある。
そもそも男性がお歯黒するようになったのは、後三条天皇時代
(1068-1072)の源有二である。自分の顔を女性のように柔和に
し、女性の関心を引こうとしたと言われている。その後、男女共
お歯黒をするようになったそうである。
室町時代にはいると13~14歳でお歯黒をした。これを13鉄漿
(かねつけ)と言った。鉄漿とはお歯黒のことである。
戦国末期(1570~1580)には、武士はお歯黒をしなかったら
しい。それは戦争のスピード化、激化の増す中、お歯黒するよう
な気持ちの余裕や、ゆとりなどはなかったためだろうか!?
戦国時代の女子は政略結婚のためにさらに早くなり、武士の娘
は8~9歳の年齢でお歯黒をつけ(大人の証)、いつでも結婚でき
るような体勢をとったといわれている。
江戸時代にはいると、世の中平和になり、庶民生活は豊かになり、
上流階級と一般庶民との生活レベルがちじまってきた。特に元禄時
代以降はお歯黒の風習が全国に広まった。13歳になると11月15日
をもって、「歯黒染めの日」と言って祝い、お歯黒を始めた。
反面、男子のお歯黒は江戸時代には衰退していった。
しかし、お歯黒をつけることの面倒くささは、庶民の娘達には受
け入れ難かったようだ。しだいにお歯黒は、婚約や結婚などはを迎
えた女性が初めてつける風習となっていった。
お歯黒は、いつの時代においても一貫して女性のお化粧だった。
しかし、時代と共にその意味あいが移り変わっていった。平安時代
から戦国時代においては娘の成人を意味し、江戸時代は既婚女性を
意味した。
一方、欧米ではお歯黒の風習など全くなかったようだ。
東南アジア、特にインドネシアでは、現在もお歯黒の風習が残って
いる。ビンロージの実を咬み、それと果汁の酸と鉄とでつくった液
を塗り歯を黒く染めている。結婚したら女性がつけるのである。
これは日本と同じ風習である。これは偶然の一致であろうか。お歯黒
が南方から伝来した根拠であろうか。
日本からバンコク、インドネシアにお歯黒レジン歯(入れ歯用の
プラスティックの歯)が輸出されているという。
お歯黒の成分
お歯黒とは一体どのような物でつくられていたのであろうか?
お歯黒は”鉄奬水(かねみず)”と”ふし粉(五倍子粉)”から構
成される。まず、”かねみず”の作り方は、焼いた鉄くずや針と、
粥や茶、麹、酢、酒などを混ぜ、約2ヶ月くらい暗所で発酵させる。
すると茶色のドロドロしたむせるほど臭い液体ができる。これが鉄
奬水です。主成分は酢酸第一鉄です。”ふし粉(五倍子粉)”は
白膠木(ぬるで)の木(うるし科)の葉に含まれており、タンニン
酸を約60%含む白い粉です。
これらを交互に、又は混ぜて楊枝を使って歯につけるのです。
反応様式は、酢酸第一鉄がゆっくりゆっくりと酸化されて酢酸第
二鉄に変わっていきます。そして、ふし粉のタンニン酸と反応して
黒色で不溶性のタンニン酸第二鉄ができます。これがお歯黒の正体
なのです。お歯黒はこのタンニン第二鉄が歯の亀裂やエナメルの管
の中に入り込み、黒くなるのです。お歯黒は次第に色あせていきま
す。歯に染み込むのではなく、歯に入り込み、黒く付着するだけな
のです。ですから週に1~2回はお歯黒をつけないと色あせてみっと
もなくなるのです。
お歯黒の回数
一般に週に1~2回は行ったようです。初めて行ったときは、エナ
メル質が緻密にできているのでお歯黒がかなかつきにくく、若奥さ
ん達は毎朝毎朝努力してぬったそうです。もし、数日さぼるとお歯
黒がたちまち薄くなってしまい、お姑さんに怒られたそうです。
お歯黒は色あせるので、中年になってもなお数日に一回はぬったそ
うです。お歯黒に要する時間は結構かかったようです。それは酢酸
第一鉄が酢酸第二鉄になる(酸化する)までの反応時間が長いため
です。この反応は温めると反応時間が早くなります。ですから、
お歯黒をぬってタバコを吸ったりすると熱で酸化反応が早くなり、
お歯黒が早く染まることを当時の人達は知っていたようです。
成分の効能について
鉄漿水の主成分である酢酸第一鉄
エナメル質が酸に溶かされにくくする働きがある。ゆっくり酸化
して酢酸第二鉄をつくる。
五倍子粉の主成分であるタンニン酸
歯質の蛋白を腐敗菌から守り保護する。まるで現在歯科治療で使
われているサフォライドと言う薬みたいです!
お歯黒の本体であるタンニン酸第二鉄
エナメル質に黒く付着し、お歯黒を達成する。しかし、次第に色
あせてくる。
1.鑑真和尚の来日
日本の仏教は538年の伝来以来、国の管理下に置かれ、国の許可を得て僧侶に
なっていたが、平安時代に入り、仏教の隆盛とともに無資格で僧侶の仕事をする者
が増えた。俗にニセ坊主である。
それを憂いた第45代聖武天皇や仏教関係者は、僧侶の戒律を厳正におこなうため
中国の唐から高僧を招請する計画を立て、天平3年の遣唐使派遣の際に4人の若
い僧侶を中国に留学させ、その任務に当たらせた。
しかし、数名の高僧等が来日したのみで、留学僧達はさらに諸州をまわり、天平14
年(733年)に揚州の大明寺の住職である鑑真和尚に日本への招請を依頼したが、
弟子達に異国である日本へ行く者は誰一人としていなかった。
そこで鑑真和尚自らが「我が身命を惜しまず」と多くの唐の人々の反対を押し切り
来日を決意した。
鑑真和尚は来日までに12年を費やした。渡航は船の遭難や和尚の来日反対の
妨害や密告で5度の失敗を繰り返してきた。この間に和尚は失明。しかし、初心を
曲げることなく天平勝宝5年11月(753年)、「第10次遣唐使船の帰国船」に一行
24名を従えて乗船、蘇州を出発、かろうじて九州鹿児島坊津の秋目に漂着(同年
12月20日)し、翌天平勝宝6年(754年)2月4日に奈良平城京に入った。
唐だけでなく世界中の多くの文物や珍しい宝物を積んで6度目にしてやっと来日を
成し遂げた。
2.鑑真和尚の功績
来日してさっそく、荒廃した日本での大仕事に取り組んだ。それは聖武天皇はじめ、
公卿や僧侶の約400名に菩薩戒を授けるという、日本仏教界にとっては一大事で
あり、僧侶達の襟を正し、仏教界に大きな刺激・新風をもたらすものであった。
鑑真和尚の功績は仏教を通して我が国民を指導したばかりではなく、わが国に、
美術、建築(エンタシス建築様式)、医薬食品・香料などに関する偉大な業績を残し
てくれた優れた学者でもあった。彼が日本に持参した教典、宝物、漢方薬が、東大
寺正倉院に今も納められている。
主な功績を箇条書きすると
・唐から新処方の生薬を伝えた。
・唐招提寺に”奇こう丸”という万病に効く特効薬の処方を伝えた。
・名称不明の薬の分類整理や、各種薬草の栽培法を指導した。
・砂糖を初めて日本に薬剤として伝えたと言われる。
・豆腐・納豆・味噌の作り方を伝えたと言われる。
・岡山香登にお歯黒の製法を伝えた。
・エンタシス建築様式を唐招提寺の柱に応用。
・仏教に関係するものでは、日本仏教建て直しのため、戒壇院を設立
東大寺に戒壇院、太宰府観世音寺に西の戒壇院、下野の薬師寺に
「東の戒壇院」を建立 などである。
3.香登のお歯黒
何と言っても、今までのお歯黒と違って、化学的に安定し、変質や悪臭を放つこと
がなく、しかも歯の表面につきが良く、歯を傷めず、操作性が良く、長旅などに携
行する場合は使い勝手が良いお歯黒、しかしちょっと高価なお歯黒、それが”香登の
お歯黒”だったのです。
天平宝寺3年3月、鑑真和尚は東大寺の職を弟子の法進に譲り、先に天皇から賜
った奈良の地に唐招提寺を建立した。同じく天皇から賜った備前香登にも寺を建立、
長く唐招提寺の末寺として栄えることになった。そんな経緯で、香登の末寺に鑑真の
弟子を通じ、お歯黒の製法が伝わったと考えられる。
鑑真が伝えた香登のお歯黒は、独占企業として地元の熊山山頂の霊山寺が中心に
なり管理支配し、ずっと香登の5つの寺々の僧侶達の手で製造され続けた。
香登のお歯黒は、各家庭で手作りのお歯黒をつくる時に使用された酢酸第一鉄(鉄
漿水)の代わりに、硫酸第一鉄(緑バン)を使用した。これに貝の灰とタンニン(五倍子
粉)粉末を混ぜ合わせた粉体です。この粉体と湿らせた水とを房楊枝などを使って歯
表面に繰り返し塗った。(繰り返し塗らないとお歯黒は付かないのです。)
香登のお歯黒の組成は、
五倍子粉(ふしこ) 1200匁
緑バン 700匁
消石灰 350匁
それぞれ 3.5:2:1の比で混合されたようです。
4.香登のお歯黒の衰退
鑑真が伝えた香登のお歯黒は、独占企業として熊山山頂の霊山寺が管理し,5つ
の寺で製造されていた。(5寺独占事業) 後世、歯を染めるだけでなく公卿
の点眉、衣類染め、アイヌの人々の入れ墨、皮に字絵を書いたりすることに応
用された。
しかし、戦国時代に小田信長の命令により、秀吉が霊山寺を焼き払って以後は、
香登のお歯黒の製造が地元民の手で行われるようになった。(民間移行)
庶民の生活が最も豊かになった元禄時代が香登のお歯黒の広まりがピークに達
し、売れに売れたようである。この元禄時代が日本全国既婚婦人の間に大流行
した時代であった。江戸の大奥や、各藩、遊郭など経済的に豊かなところでも
っぱら使用されていた。
日常は手作りの安上がりのお歯黒を使用していた一般庶民の女性も、旅行など
する際にはもっぱら鑑真処方の香登のお歯黒を用いた。
幕末まで、”鑑真処方のお歯黒”製造が香登の5軒の製造業者により独占販売
が続いた。
当時の5軒の製造業者とは
港 屋(高取家・商品名 おたふく、大和かね・禁裏御用達)
板 屋(竹内家・商品名 はやかね・江戸城御用達)
かね屋(竹原家・商品名 ぬれからす)
新田屋(甲矢家・商品名 大黒かね)
小姓屋(一井家・商品名 小姓屋はやかね)
の以上の5軒である。
しかし、天保年間に和歌山で香登のお歯黒に似た処方で製造されていたことが
昭和になって判明した。和歌山県御坊市塩屋町北塩谷の田端家に、天保15年
1844年ころ活躍した商人 田端梅助が子孫のために書き写したお歯黒の“伝
授覚書”が保存されていた。当時 ”品かね ”と呼ばれていた。
その組成は
五倍子粉 260g
緑バン 160g
カキ殻(炭酸カルシウム) 50g
明治時代になって香登お歯黒は激減し、白髪染めやブルーブラックインキの製
造に転換していった。昭和22年に香登のお歯黒の最後の製造がされたそうだ。
昭和24年に北海道や九州に向けて最後の発送がなされ、ついに12世紀の間
日本人の歯に施されたお歯黒も幕を閉じた。しかし香登でのお歯黒製造中止後
も、同じ様な組成・処方のお歯黒が各地でつくられていたようだ。例えば、昭
和48年に 秋田で今だにお歯黒をしている秋田美人のことが報じられた。
93歳の女性のお歯黒である。使用しているお歯黒が香登のお歯黒と同じ様な
組成であったという。
一週間に一回のペースで染めるとのこと。一時、お歯黒の入手に困った時期が
あったという苦労話など。
また、最近私にE-mailを下さった山形の市村氏によりますと、ごく最近まで
山形でお歯黒が製造されていたそうです。それが香登の処方かどうか確認して
おりませんが、多分香登のお歯黒に似た処方で作られているのではないかと考
えます。
市村氏は、郷土山形でのお歯黒の風習の消滅に対し、強い寂しさを感じられて
いるようです。